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三男最低伝説

昭和が生んだ怪物はむらけんじのほのぼの日常系ブログ

リンゴの品評会と活路

時として、他人から受ける評価に愕然とすることがある。

評価としては十分なのに、自分としては全然足りない…。他人から見れば、それは自己過大評価に写るのか、あるいは傲慢か、横柄か…。

一昨年、僕は自分の仕事と平行して、新人の教育プログラムの企画をやらされていた。このプログラムをわかりやすく言うと、若手社員が受ける昇任試験で、我が部署から優秀な若手が昇任するように、ベテランがサポートする趣旨のものだ。

教育プログラムは通年(度)で行われており、大きく筆記と実技という各2部門に分かれる。部門ごとに、各職場(セクション)から教育係が1名、その教育係を統括するもの(以下、教官とする)が1名という編成で行われる。

そのうち、僕は28年度の実技の教官に抜擢されていた。

これはかなり破格というか、あり得ないことで、僕みたいな地位や役職の人間が教官を受け持つことはありえない。どれくらいあり得ないことかというと、27年度の実技の教官から業務内容を引き受けたのだが、その年の差15歳。僕は45歳の大先輩から業務を引き受けた。

つまり、僕がやろうとしてることは、30歳そこそこの若造がやることではないのだ。しかも指揮系統上、下にいるのは先輩。なぜこんなことになったのか、例年このプロジェクトの結果が芳しくなく、大改革のために、地方からやってきた、できる男である僕に白羽の矢がたったいう経緯である。こうして僕は先輩を従えてプロジェクトに臨むことになった。

ここまでは良かった。そう、ここまでは良かったのである。

教官をやることは僕のステータスにもなったし、勉強にもなった。28年度の教育プログラムの成果としても良かった。結果も出した。28年度の当初、頭を抱えたものだったが、やり切った。本当に良かった。

問題が起きたのはこの新年度だ。

29年度の新体制を決める首脳陣の会議で、当然、29年度の教育プログラムに関することにも触れられる。そして、そこでとんでもない名前が挙がる。そう、僕の名前である。この会議でなんとも馬鹿げたことが起きたのだ。

僕は、今度は筆記の教育プログラムを統括することになったのだ。

それを上司から聞いた瞬間、思わず「は?」と言ってしまった。だってそうだろ。僕は去年やったんだから。これがメインの仕事じゃない、完全なボランティアとして、この教育プログラムをがんばって"やってあげた"のに、この始末だ。

キレまくる僕を見て、同僚や後輩は「すごいな~」と一言。僕は嫌々ながら喜んでるんではなくて、本気で嫌がってるのだが。

嫌な理由は、主に3つあり、1つ目は去年もやったということ。2つ目は実技と筆記どっちも得意だけど、どちらかというと実技で売っていきたいのに、あまり乗り気ではない筆記をやらされること。3つ目は28年度から何もステップアップしてないこと。

再度僕が選ばれた理由が、「羽村ならできると思ったから」らしい。ちなみに、新年度の配置換えで、僕の直属の現上司も新しく転属してきたクチで、その新しい上司の人事評価として、「羽村なら筆記の教官にぴったりだ」と思ったということだ。

去年は上司からも「羽村なら実技の教官にぴったりだ」と言われた。つまり、別々の人から受ける僕の評価が同様の結論に達したということだ。これは聞こえはいいが、僕から言わせればはっきり言って過小評価だ。

今の上司は「お前なら出来る」という論調で説得してくるのだけども、もうこっちは昨年度、実技の教官をやっとるねん。何をいまさら同格の筆記の教官をせねばならんのか。余計な仕事も増えるし、評価されているようで、正当に評価されていない。

もう去年、教官を完遂した時点で、もう僕がやる仕事ではなくなったのだ。

真に評価してくれてるなら、実技や筆記の教官じゃなくて、さらにその上のポジションだろう(これは本当にあり得ないけど)。期待されてるとか、お前ならできるとかで、体の良いアイコンとして使われてるのに我慢ならない。

そもそも、僕を教官にあてて、人材育成とか考えてるようだけども、僕もこの職場に長くいるつもりはない。しかるべきところにステップアップしていくつもりだし、特にこの職場に思い入れもない。教官は、この職場を愛し、この職場に長くいるだろう幹であるべき人に任せるのが一番いいのだ。

そういう意味で僕より適任者はゴマンといる。

29年度はいいのだけども、今後、僕が抜けた後を考えると笑える。一極集中のエース体制やワンマン体制ほど弱い組織はない。本当に上の人間は何もわかっちゃいない。楽してピカピカのリンゴを店頭に据えようとするけども、本当はあんたらが傷だらけのリンゴをがんばってピカピカにするべきなんや。

ピカピカのリンゴが売れてしまったとき、彼らは何を売るんだろうか。

会話しんどいわ

会話には機微や齟齬というものがある。会話はキャッチボールというが、会話は論理であるというのが僕の持論だ。以下は先日、広島から出張で帰ってきたときの後輩とのやり取りだ。

僕「あ~、やっと帰ったきたわー」
後輩「お疲れ様です、大変でした?」
僕「まぁ実家にも帰れたし、ええわ」
後輩「片道どれくらいかかったんですか?」
僕「320km」←ブルゾンちえみ風に。
後輩「いや…距離じゃなくて、時間…」
僕「平均時速90kmくらい」←ちょっとイラっとしてる。
後輩「は?」

もちろん僕はアスペルガー症候群ではないので―、余談だが昨年末をもってアスペルガー症候群の後輩が退職したが、後輩が「時間」を聞いているのはわかる。

ただ、急いで行くのと、ゆっくり行くのだけでも時間がまるで違うわけで、僕はこの質問をした後輩に対して、まったく気が利いてないな、と不快感を露にしてしまったのである。会話は以下に続く。

僕「平均時速90kmくらい!」
後輩「いや、それは先輩が計算すれば…」←この発言もおかしい
僕「なんでわざわざ俺のメモリ使ってお前のために計算せんといけんねん」
僕「大体お前さ。途中、休憩とか下道とか昼メシ挟んでるのに」
僕「時間を聞くことになんの意味があるの?」
僕「例えば普通に行けば4時間で着いたとしようや」
僕「そこに2時間休憩を入れて6時間で着いたとしようや」
僕「6時間と聞いてお前は『大変でしたね』って言うの?」
後輩「・・・」
僕「休憩なしで4時間で行くほうが俺は大変だと思うけど」
僕「お前が聞かなければならないのは距離だよ」
僕「何? 本当は時間とかどうでもよくて俺と単に会話したかっただけなの?」
僕「なら時間に固執する意味がわからん、お前が妥協しろや」
後輩「あ、お湯沸いてるわ」ササッ…。

最近は後輩らの昇任試験の面接練習に付き合ってやったりするのだけども、正直会話になってないのが実情ですね。まずは相手の質問の意味を考えないと(お前がなというツッコミはなしで)。これで羽村さんは上司に媚を売るのが上手いとか言われたら適わんわ。僕はきちんと会話してるだけ。

だから同じ書類を持っていってるのに、上司に印を押してもらえる・押してもらえないの差ができるのではないのか。まぁ同じようなことを、女性に関して言われそうだが…。言われそうなだけで、そんな事実はまったくない。

とここまで記事を書いていて「だから結婚できないんだよ」という読者の声が聞こえてならない…。普段はやさしい先輩なので、みなさんよろしくお願いします。特に20代前半の独身女性の方々はどしどしメールください。

公共機関での流儀

あまり外を出歩かない僕にとって、公共機関に乗るというのは、外界と接触する唯一の機会と言っても過言ではない。当然、死のリスクも高くなってしまう。隣のやつが突然刃物を持って暴れたり…。とにかく僕は周囲への警戒に余念がない。

いきなり予断になるが、駅のホームで待っているときも、ホームに対して自分が直角に立っていると、真後ろから押されたときに、受身が取れずそのままホームに転落してしまうので、ホームに立つときは斜めに立ち、正中線をずらしている。これで後ろからドンと押されても安心だ。

話を戻して…。

事が起きたのは目的地へ向かう序盤であるバス停だ。

あと5分で到着するバスに乗るためにバス停にやってきた僕だが、初老の男性が先にバス停に待っていた。後から来た僕は二番目の乗客というわけだ。ここまでは特に問題なかったのだが、僕の後から三番目の乗客である親子連れがやってきた。

ここから話はおかしな方向へと向かっていく。

僕は慣れた手つきで、2台持ちのスマホでプレイしているゲームのログインを済ませると(ログインする毎にボーナスがもらえる)、出来る男らしく手早く来週からの予定に目を通していた。ちなみに月曜から火曜まで出張で広島に帰る予定だ。

特にエロ画像を見る中学生のようにスマホに熱中していたわけではなく、到着予定時間通りに僕の右手から来るバスの目の端で捉えていた。そう捉えていたのである。しかし、この後とんでもないことが起きる。いや、とんでもないことを言われる。

「バスが来ましたよ」

初老の男性が突然、僕にそう言い放ったのである。そのときはちょっと一瞬イラっとしたものの、特に気にすることなく、バスに乗り込んだ。もちろん、初老の男性が促すので、三番手の親子を押さえて、僕が一番最初にバスへ乗り込んだのである。

乗って気づいたが、日曜の午前中ということもあり、多分みんなどこかにでかけるのであろう、ほぼ満席で席は二つしか空いていなかった。僕はどちらかというと立ってることが多いので、席に座らず安定して立てるポジションについた。

その脇を先ほどの初老の男性が抜けていき、空いてる席にすべりこんだ。三番手の親子は子供のほうを座らせる。別になんてことはない日常の風景。日常の風景だが、僕はどこか違和感に引っかかっていた。さっき言われたことだ。

「バスが来ましたよ」

バス停でバスが来て、他人にこんなことを言われたのは初めてだった。この人はなぜこんなことを僕に言ったのか。いつも言っているのか、僕だから言ったのか。バスに揺られながら、僕は真剣に考え始めていた。こんなことで考え込むなんて、バカらしい。

スマホをガン見していた僕がバスが来たことに気づいていないのかと思って親切に言ってくれたのか。それとも、どこかで会った知り合いだった? 様々な考えを張り巡らせ、論理や経験則、妥当性から僕はある一つの結論に達する。

問題は立ち位置だった。

あのバスが来るのを待っていた時点で、一番最初にバスを待っていた初老の男性の立位置は、バスの停留所の案内表示板からかなりずれていた。図らずも二番手でやってきた僕がその初老の男性の隣に並ぶと、僕が案内表示板のど真ん中に来る格好に。

ド下手糞の運転手でない限り、バスは案内表示版の前で止まり、バスの入り口が開く。その入り口に最も近いのが僕というわけだ。初老の男性は確かに一番最初に待っていたが、最初に乗り込むためには、僕の前を追い越さないと乗り込めない。

僕は知らず知らずのうちに地の利を得ていたのだ。この関係性は、三番目にやってくる親子に対して同じこと。僕はその場で絶対的に有利な立場にあったのだ。もちろん、それは初老の男性にもわかっていた。しかし、そのような緊迫した状況にあって、僕は出来る男よろしくスマホを注視していた。

バスが来て初老の男性は思っただろう。「もしかしてこの童貞の男、スマホに夢中でバスに気づいてないのではないか」そう、まさにこの初老の男性にとって一番最悪の事態が起きようとしていた。この初老の男性にとって最悪のシナリオ。

それは、僕がバスが来たタイミングですぐに乗り込む動作に移らないこと。ワンテンポ遅れてしまうと、三番手の親子が僕を抑えて先にバスに乗り込むことになってしまう。そうなってしまうと、もうダメ。入り口の押さえられている初老の男性は必然的に僕の後、つまり三番手に回ることになってしまう。

ここで、疑問が一つ。

なぜ、初老の男性は僕の前を通り過ぎて、一番最初に乗り込もうとしないのか。それは簡単だ。普段からそういう我先に、というような精神を批判してきてるもんだから、若者の手前そういう傲慢さの醜態を晒すことが我慢できないのだろう。

譲り合いの精神、和の心、道徳、そういう教育を受けてきている。中国人じゃないんだから。日本の倫理観がそうさせているのだ。それに普段から若者や外国人を批判している手前、自分がそうなることがあり得ないのだろう。

いやらしい…。

本当にいやらしい…。そして「バスが来ましたよ」と親切な人っぽく僕にバスに乗るように促し、人を押しのけて我先にとバスに乗るはしたないマネをせず、かと言って、三番手の親子に席を譲ろうせず、自分はがっちりと二番手の位置を確保。あの発言は最小限の被害で自分が席に座るための算段だったのだ。

この化け狸め…。

最適解がわかり、どうだあんたの目論見がわかったぞ、と勝ち誇ろうと視線を送ると、その初老の男性が、真っ直ぐに前を見つめながら少し笑っているように見えた。

バスが終点に着くと、僕はもう一度この目でその初老の男性の顔を見てやろうとした。しかし、悲しくも大勢の乗客の波に飲み込まれ、初老の男性は大都会の渦に吸い込まれていった。

僕は誰。