オリオンの空は燃えている

昭和が生んだ怪物はむらケンジのほのぼの日常系ブログ

去年の餅つき

去年の餅つきの出来事について書いておこう。

僕の勤め先では、何故か年末になると餅つき行事なるものが行われる。みんなで餅をついて、年の締めとして無病息災を願おうという企画である。まぁ普通、餅というのは新年につくものだが…。

しかし、遊びではなく大人たちの催しなので、しっかりと餅つきの役割分担が決められる。米を蒸す係、餅をつく係、餅を丸める係、餅を焼く係など。僕は餅をつく係に。餅をつく係は2グループに分かれており、1グループにつき4~5人で編成されていて、グループで交代しながら餅をつくという算段。

4~5人のうち、3名は若手(僕より後輩)のため、僕はほどほどにしつつ、若手に餅をつかせようと考えていた。ところが、始球式ならぬ餅つき始め式(お偉いさんにもちをついていただく)で、"餅を返す"係を誰がやるという話になって、何分急な話だったので、餅つきグループの棟梁的な人から恐るべき一言が。

羽村羽村はどこにいった!」

おいおいおい。何故僕が…。ちなみに僕は餅とかまともについたことがないシティボーイである。こういうのは餅つき経験豊富な田舎者にやらせるものなんだが…。気を抜いていた僕に一斉に80人近い視線が集まる。というかまず、元々やる気もまったくなく爪も切ってきてないし…。

餅の返しというのは、簡単そうに見えて実は難しく、ちょっとやりたくない気持ちでいっぱいだったが、棟梁からその場で要領を教えてもらい、実践した。最初はつき手とのリズムが取れず、周りからドッと笑いが起きる。が、徐々に僕の返しとつき手のリズムが呼応し始める。コツをつかむと僕はあっという間に"返し"を習得した。

周囲からも歓声が聞こえる。

それはそのはず。僕は昔から要領だけはいいので、コピー忍者などと呼ばれてきた。そして、オープニングは大成功に終わった。大役をやり終えた僕は、気を抜くことなく自分のグループ内の若手と綿密に調整。1人つき終わるごとに、返しの役を回そうという話でまとまった。

ところが、恐ろしいことが起きた。2番手で登場した若手が、まったく返しができないのである。僕の返しを見ていて、本人はできるだろうと高をくくっていたみたいだが、そう簡単なものではない。たまらず上司から「お前はもういい! 羽村を呼んで来い」とご指名を受ける。

返しというのは、"つき"と"ふりかぶり"の動作の間に、水で湿らせた返し手で餅をひっくり返し、万遍なく米から餅になるように、サポートする役目。このつきとふりかぶりの間にすばやくもちを返さないといけないのだが、その若手がこの返してのリズムがよろしくない。返し手が逃げ遅れて、杵に打たれそうになる。

この意外に難しい返し手、欲張りすぎてもよくない。極端な話、毎回毎回返す必要はなく、必要ないと判断したら"1回休み"のような動作をいれなければならない。あまり、欲張りすぎると…逃げ遅れた返してが、つき手の杵の餌食になることになる。

場の進行を考え、しばらくは僕が一任して返しをすることになった。

合間合間で後輩に返しのコツを教えてやることにも余念がない。その頃には僕の返してのレベルは、餅のつき手の癖を1~2投で把握し、つき手のつきやすい位置に餅を返すまでに到達していた。誰にも気づかれないほど地味で高度なレベルの技術だが、棟梁はそれを見抜いており、お褒めに預かった。

 よくテレビでもやってる高速づきも可能であり、僕はものの数十分で不動の返し手に成長していた。「お前本当に初めてか!?」などと、普段仕事では厳しく接してくる上司にも大絶賛、手放しで褒められて最高に気持ちがよかった。間違いなく、僕はあの時あの場所でヒーローだったのである。

事件が起きたのはその後だ。

そんな僕の独壇場を見ていてか見ておらずか、ある一人の後輩が自分にも返し手をやらして欲しいと僕に言ってきたのである。僕は嫌な予感がした。こいつは、先輩である僕に返しを続けさせるのに、遠慮を感じて申し出たのか、それとも…。

嫌な予感がしつつ、僕は返し手のポジションをその後輩に譲った。返し手に固執する必要はもうなく、しかも僕はもう十二分に働いたので、餅などを摘みつつ、暖を取っていた。そこに「あー!」と叫び声が聞こえた。

僕の後任の後輩が、つき手との呼吸が合わず、残った返し手につきを食らってしまったのだ。後からほかの後輩に聞いたら、youtubeに出てくるようなシーンで、完璧なタイミングで打撃を食らったそうだ。手を打たれた後輩は出血。幸い骨には異常なかったが、後輩は退場。

 その後、返し手に呼ばれるのはもちろん僕である。この時点で僕の株は爆上げで、勝利勝利アンド勝利という伝説の日になってしまった。

結局、餅の返し手をほとんど僕がやり切ってしまった。手を打たれた後輩には申し訳ないが、最高に気持ちの良い1日だった。今年の餅つきにまた僕が返し手で使われるかわからないが、今度は後輩にも見せ場を作らせようかなと考えている。


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最後に、中谷堂さんの餅つきを紹介しておこう。
今年はこのレベルまで達したい。

好きなものはいつも嫌いなもの

僕が好きなものは、誰しもが好きなものではなく、どうでもいいものだったり、逆に嫌いなものだったりする。要は人によりけりということが言いたいのだが。

特に、僕が好きなゲームハードやサッカー選手、歌手、漫画などは、常にアンチと呼ばれる反対勢力の攻撃に晒されている。特にネット場ではどこにいってもそう。僕が行く先々で何故だか争いが絶えない。

極端な話、世界中で争っている。世界中で戦っている。具体的には戦争だろう。個人的にはこれは多分無くなることはないんじゃないのかと思う。戦争と平和について、ある高校生が面白いこといっていたのを思い出した。その高校生はこう言った。

「てか歴史上今が一番平和じゃね」

寝言は寝てから言わないといけない。果たして今が一番平和だろうか。確かに今この瞬間の日本が平和なのは認めよう。毎日多少の事件は起きるが、食べるものはあるし、好きなことはできるし、嫌いなものは嫌いと言えるし。しかし忘れてはならない。このような平和が訪れたのは、ほんの70年余りの出来事だということを。

単純な期間で言ったら、まだ70年ちょっとしか平和が続いていない。これには非常に違和感を感じる。何せ70年前まではこの国は戦争状態にあったわけで、逆に言ったら70年後、この国が戦争状態にないとは言い切れない。この平和がいつまで続くのか。

「多分一生続くんじゃないの」

その高校生は思うだろうか。しかし、それは本当に幻想でしかない。あの、あの徳川幕府の天下泰平もたった、たった264年で終わってしまったのだから。途中、色々あったことは間違いないが、平和が264年も続いたということは凄いことである。

「平和」の反対語は何か。ほぼ「戦争」という答えが返ってくるが、正確にはこれは間違いである。「平和」は状態を示す言葉であり、「平和」の反対語は「混乱」。そして「戦争」は外交の手段を示す言葉であり、「戦争」の反対語は「話し合い」や「調停」。もちろん学校や塾では平和の反対は戦争と教えているのは承知の上である。

これだけを鑑みても我々の平和と戦争の考え方がかなりずれていることに気づかされる。それにしても何故戦争は無くならないのか。

それは何故いじめは無くならないのかという疑問にも通ずることかもしれない。何故戦争はなくならないのか、争いが絶えないのか。僕が下した個人的な結論、それは単純明快である。それは、人間が生まれながらのハンターであるからである。人間は常に標的を探して生きている。その根拠とは。

皆さん鏡でご自分の歯を見ていただきたい。

普通は犬歯というのがあると思うが、これは人間が狩人であり、肉食動物である証拠(の名残らしい)。もちろん、草食動物には犬歯はない。そう、人間は生まれながらにして、殺し食らう、殺生することが宿命づけられたまたぎなのだ。

僕のこういった考えは、時として別の言われ方をすることもある。そう、それが性悪説である。性悪説とは、孟子性善説のアンチテーゼの位置づけとして唱えられた、人間の本性に対する主張。人間は生まれながらにして、標的を、敵を探しているのである(生物学的な意味で)。繰り返すが、これはあくまでも個人的な意見。

人間が人間である限り、人は争うことを止められない。それはまるで、自分の力を誇示するかのように。それはまるで、猫が獲物をいたぶるように。そして、それはまるで、自分の正しさを証明するかのように。お腹が空かなくなったら多分戦争はなくなる。

それは無理なので人は今日も戦う。

嘘を嘘と見抜けない人に

今日はみんな大好きインターネットの話。

インターネットの言葉的な起源は、インターネットワークだそうだ。複数のネットワークを相互接続したネットワークというのが本来の意味。

つまりインターネットというのは、ただの"つながり"をさしている言葉であり、インターネットは大変便利なものだけど、大事なのはそのつながっている先のものであり、それだけでは何ら役に立つことのない代物なのである。インターネットは偉大ではあるが、偉大ではない。

何が言いたいかというと、昔、僕はインターネット端末一つあれば、何でも調べることができると思ってた。思っていたが、大人になるにつれてそうじゃないことに気づき始めた。あれ、ネットやばくね。

最初に気づいたのは大学のころ。

書きたいレポートの情報を集めるために、インターネットにアクセスした。ネットで調べればすぐに答えが出ると高をくくっていたが、調べても調べても情報が一向にでてこない。キーワードやフレーズこそ、検索エンジンに引っかかるものの、その先にある深い部分にたどり着くことができない。というかない、その先がないのである。

やれポケモン個体値であるとか、ミュージシャンの2ndシングルの初動売り上げ枚数だとか、熱心にまとめ、ネットにアップロードされている分野は確かにある。中にはラジオ番組で話された内容を文字で起こしているサイトなども見かける。

極端な話、ある種の分野(例えばエロだったり)では、インターネットの情報網は恐ろしいほど発達し、蓄積されているが、人の興味が薄れるような恐ろしく難解なもの、マイナーな分野に関しては十分に発達しているとはいいがたい。

というより、ネットには得意な分野と得意じゃない分野があって、うわさ話や一般大衆向けのものが大得意で、逆に学術的なものや専門的なものに関して、疎かになっている気がする。大学で学ぶような事柄ならなおさらである。

ネットで情報収集することに失敗した僕が選択した行動は、図書館に行くことであった。この巨大なアナログなデータべースには、ネットにはアクセスできない情報が山ほどあった。本というアナログな媒体に触れ、本当の意味で情報収集した僕が気づいたのは、いかにインターネットには間違いや嘘があふれているか。

本で調べたこととまったく逆のことが書かれてたりもしていた。

インターネットは便利なものであるが、所詮は二次的、三次的な情報源にすぎない。よくネットで一次ソースを当たれというが、デジタルな世界には一次ソースなんてもの存在しないというのが僕の持論である。極端な話、自分がこの目で見たもの以外、厳密な意味で"ソース"にならないのでは。これが究極のアナログではないのか。

最近の大学生はレポートや卒論を書くのにインターネットをよく利用するとのことである。インターネットでコピペした文章をレポートで提出するなど笑止千万。ちなみに、図書にいってちゃんと調べた僕の評論、「発展途上の中国と不当競争防止法」「少年マンガと少女マンガの違い」の評定は優であった。

しかし、攻殻機動隊の世界ではないが、ありとあらゆるものがデジタル化されて(劇中では初期評論革命集のオリジナルを探しに行ったが)、誰もがいつでもそこにアクセスできるような時代。そんな世界がいつかはくるのだろうか。

何が言いたいかというと、ネットに書かれている情報程度で完結する生活を送っているようなギャルと結婚したいということある。